より原音に近いファミリーネームの表記は「ズィンク」だが、本項では日本のプロレス史における慣例的な表記(日本語圏で一般によく知られている名前)に則る。
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[編集] 来歴
カート・ヘニング、リック・ルード、スコット・シンプソン、バリー・ダーソウ、ジョン・ノードらを輩出したロビンズデール・ハイスクールの出身。学生時代からボディビルに熱中し、後に "Mr. Minnesota" など数々のタイトルを獲得した。ルードやシンプソンをコーチしたエディ・シャーキーにスカウトされ、1983年にビル・ワット主宰のMSWAにてデビュー。1984年からはバーン・ガニアの牛耳る地元ミネソタのAWAに登場、甘いマスクと肉体美を持つベビーフェイスの新鋭として、次代のスター候補と目された。
1985年より、太平洋岸北西部のオレゴンやワシントンをサーキット・エリアとするNWA圏のPNW(Pacific Northwest Wrestling)に参戦。1986年1月21日にボビー・ジャガーズからパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を奪取した。同年下期からはカナダのモントリオールに進出、11月には同地区のスターだったリック・マーテルのパートナーとして、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に初来日した。
以降も本格的にマーテルとタッグチームを結成し、翌1987年、カンナム・コネクション(Can-Am Connection)のチーム名でWWFに参戦。ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)やドリーム・チーム(グレッグ・バレンタイン&ブルータス・ビーフケーキ)などヒールのトップチームと対戦し、3月29日のレッスルマニアIIIではカウボーイ・ボブ・オートン&マグニフィセント・ムラコから勝利を収めるも、契約のトラブルでジンクのみ短期間でWWFを離脱した。
その後は古巣のAWAに戻り、1989年2月7日にセントポールで行われたAWA世界ヘビー級王者決定バトルロイヤルにも出場。サージェント・スローター、ワフー・マクダニエル、ケン・パテラ、マイク・ジョージ、アキオ・サトー、パット・タナカ、ポール・ダイヤモンド、マニー・フェルナンデス、グレッグ・ガニアらを抑え、ラリー・ズビスコと優勝を争ったが、オーバー・ザ・トップロープで失格し戴冠は果たせなかった。
また、この間には全日本プロレスの常連外国人選手となり、1986年11月の初来日から1989年7月まで5回に渡って来日した(最強タッグには1987年大会にもザ・ターミネーターをパートナーに参加するなど、2年連続で出場している)。
1989年末、当時まだNWAに加盟していた初期WCWと契約。Zマン(Z-Man)と名乗ってブライアン・ピルマンとコンビを組み、1990年2月12日にトーナメント決勝でファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&ジミー・ガービン)を破りUSタッグ王座を獲得。同年12月4日にはアーン・アンダーソンから世界TV王座を奪取している。1991年3月21日には、WCWとの提携ルートで新日本プロレスの東京ドーム大会に参戦。新日本には翌1992年10月にも来日し、ジム・ナイドハートと組んでSGタッグ・リーグ戦IIに出場した。
1993年はリッキー・スティムボートとドス・ホンブレス(Dos Hombres)なる覆面タッグチームを一時的に結成し、5月23日にWCWの本拠地アトランタで行われたPPV "Slamboree" に出場、ヒールターンしたピルマンとスタニング・スティーブ・オースチンのハリウッド・ブロンズが保持するWCW世界タッグ王座にスチール・ケージ・マッチで挑戦した。
1994年の初頭にWCWを離れ、同年6月と9月には全日本プロレスに久々に登場(日本には通算9回来日)。以降はインディー団体を転戦し、1996年に引退した。
[編集] 得意技
[編集] 獲得タイトル
- NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:1回
- NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:1回(w / Scott Doring)
- カナディアン・インターナショナル・タッグ王座:1回(w / ダニー・クロファット)
- NWA USタッグ王座:1回(w / ブライアン・ピルマン)
- NWA世界TV王座:1回
- WCW世界6人タッグ王座:1回(w / ダスティン・ローデス&ビッグ・ジョッシュ)
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